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2002年7月7日日曜日

思い出の山、思い出の川

◇自己紹介に変えて

 森林ボランティア活動を始めた頃、どうしてこういう活動を始めたのか、よく聞かれていた。意識の下に、小さい頃の体験があると感じ、小さい頃の思い出を「森づくりフォーラム」の通信に書いたものである。


1)「エゴノキとゲラン」

故郷は大分県の山国町というところだ。文字通りの山の中だ。山を見れば、スギ林と椎茸の原木のためのクヌギ林がモザイク模様をなしている。山間に棚田が広がる。しかし、集落に住む人は減り続けている。生まれ育った集落では、10数件のうち半数がひとり暮らしだ。最初は山が放棄され、次は田んぼ、そして空き家が増えていく。東京でのノンキな生活がどことなくうしろめたい気分になる。
 さて、そんな故郷も昔は子どもも多くて、大にぎわいだった。あのころは、ただ遊んでばかりいたわけでなく、小さいながらも働くということもその中にはあった。この、遊びと仕事がわかちがたく結びついているような感じが何だか今の森林ボランティア活動と似ているような気がする。そんな子どもの頃の話。

エゴノキって、知ってるだろうか?雑木林など、どこでも見られる木で、春先に白い花を咲かせ、初夏にはここぞとばかりに、たわわな実をつける。形といい、色といい、見るからに何か薬になりそうな雰囲気の実だ。先輩たちの言い伝えに、このエゴノキの実をつぶして、それにコショウと灰をまぜて川に流すと魚が浮いてくるというのがあった。これを「ゲラン」と呼んでいたのだが、どんな意味かはいまだにわからない。そんな簡単なことで魚が浮いてくるのかよ、と言いながらも子どもたちは試してみる。
さっそく手ごろなエゴノキを見つけ、バケツ一杯の実をつぶして、言われたようにコショウと灰をまぜた。そして、川に流した。しかし、魚は浮いてこない。ただ、水が濁っただけだ。だまされたんじゃないか。子どもたちはそう思った。だいたい、大人というものは子供をだまして、からかって楽しむという存在だったから。ちなみに、私は今でも青年たちをだまして、この「伝統」を受け継いでいる。一度、近所のおっさんからいいものがポケットに入っているから手を入れてみな、といわれ、スモモでも入っているのかと思い、すぐに手を入れた。が、にゅるっとした感触。中にいたのはヘビだ。おかげで、今でもヘビは嫌いだ。みんな、あのおっさんのせいだ。
 それはともかく、お手軽に魚を捕る「ゲラン」作戦は失敗した。あのときは、だまされたと思ったが、中学になって理科で偉大なことを教えてもらった。それは、「濃度」という概念だ。つまり、川の水量に比べて流したゲランの量が少なすぎたのだ。大きくなって聞いたところによると、そのまま川にゲランを流すのではなく、水をせき止め、水量を少なくして流すということだった。さらに長じて、植物図鑑を見るようになって、確かにエゴノキの実にはサポニンという成分があり、魚を麻痺させるとあるではないか。まんざらウソではなかったのだ。ただ、コショウと灰を混ぜるという意味はいまだに未知のものだ。 そうだ、今年の夏、もう一度ゲランを試してみよう。

 7月上旬はホタルの季節。最近、故郷の山国町ではホタル見物でにぎわっているそうだ。お袋は、俺たちの子どものころよりすごいかもしれない、という。一時は農薬のせいで、ホタルもツバメも姿を消していたのに。あのころだって、田んぼに水ひくイゼ(水路)の上にホタルの光の川ができていたが、それよりすごいってどんなにすごいんだろ?ホタルは栄えても集落はやせ細っている。一度、ホタルを見に帰ろうか、と思う今日この頃。


2)「遊びで覚えたことは」

夏の子どもたちの遊びはたいがいが川である。夏休みなど、それこそ毎日、川に泳ぎに行く。子どものころ泳いだ山国川の上流は冷たい。1時間も泳ぐと唇は真っ青になる。夕暮れまで川で遊ぶ。通った高校は山国川の河口の街だ。高校になってびっくりしたのは泳げないやつがいるということと、何時間泳いでも身体が寒くならないということだった。水が生ぬるいのだ。
川での遊びは魚捕り。夏休みは「カシバリ」をつける。カシバリは竹ヒゴに40cmくらいの紡績糸、その先にハリ。えさはミミズ。仕掛けるのは夕暮れ時。仕掛ける場所はシワ(川の中の石と石の間の隙間)の中。ひとりで40丁くらいのカシバリをつける。朝、5時前に起きて上げに行く。うまくすればウナギが2匹くらいはかかる。あとはドンカチが4、5匹だ。ドンカチが標準語で何という魚かは知らない。ウナギがかかると大喜び。すぐに蒲焼きだ。暴れるウナギの頭に釘を打ち、すべらないように左手でトゲトゲのあるカボチャの葉で押さえつけ、背割りする。東京に来て、ウナギ屋の店先でさばく職人さんの見事さには驚いた。ウナギの習性を知っているのだ。カボチャの葉など使いはしない。ひとなで、ふたなででウナギはおとなしくなっている。
「夜ぎり」もおもしろかった。夜中の1時すぎにガス灯を持って川に行く。寝ぼけた魚をウナギバサミでつかまえるのだ。しかし、夜ぎりでウナギを捕った覚えはあまりない。ハエなどはよく捕れたが。ガス灯のカーバイトのにおい、真夏だというのに足がきれるほどに水が冷たかったことがよみがえる。
ガス灯に使うカーバイト。水と反応してアセチレンガスを出す。こういうのはすぐに遊び道具になる。近所のおっさんたちがこのカーバイトを使う大砲を作った。モウソウ竹の大きいのに針金を巻き付け、節に粘土の弾をつめる。竹の中には水とカーバイト。導火線に火をつけると、ドッカーンとすごい音がして、粘土の砲弾が飛んでいく。竹はバラバラだ。よい子はまねしないようにね。
俺たちもさすがに、これは怖くてまねできなかった。そのかわり少しおとなしめに応用する。カーバイトでのロケット遊びだ。カーバイトのかけらに水をかけ、そのうえに缶詰の缶を伏せる。そして、導火線で点火する。缶詰の缶は勢いよく、それこそ4mくらいは空に飛び上がるのだ。この種の爆発ものは危ないがゆえにか、子どもの冒険心をさわがせる。今、いろいろと思い出してみると、危ない遊びの方がよく覚えている。遊びは危険があってこそおもしろかった。また、危険を感じるからこそ頭を働かせるし、工夫もする。 こうして、コントロールすることを学んでいく。どの「程度」が許されることなのか、力量に見合うことなのかを知る。絶対的に安全ということはない。「危ないからやってはいけない」のではなく、どこまでが大丈夫かをという程度を理解すればいいのである。そして、安全であるために技術を上げようとする。刃物という道具だって同じことだ。「肥後之守」という小刀にどれほど世話になったか。
 小さいころ、自然相手の遊びで学んだのは、たぶん、状況によって違う危険の度合いは身体で覚えるしかなく、安全であるためには知識と技術が必要ということである。自然を相手に遊ぶことは本当に重要だ、大人になっても。「環境保全」という能書きよりもはるかに本質的ではないかと思ったりする。

3)「労働が教えることは」

小さい頃はよく働かされた。田植えなんぞ小学6年生の時分には、お袋と同じ程度にやれた。一人前である。大人も子どもも競争でやっていたから楽しくもあったし、工夫もした。早く植えられるポイントは苗持つ左手の使い方だ。左手の親指と中指を使って、苗を4本ずつ位に区分けしていけば右手はそれをとって植えるという作業だけになる。右手でいちいち分け取っていたのでは、時間がかかってしようがない。「次の作業を考えてやる」というのを覚えた気がする。
夏は田の草取りと畦の草刈りである。畦の草刈りなど朝の涼しいうちにやる。ブヨがでるから、「ブヨぶち」というものを腰にぶら下げていく。ブヨはどうも木綿をいぶした煙が嫌いなようで、木綿の布きれをワラでくるんで、それに火をつけ煙を出す。蚊取り線香より効果はあったのだろう。
畦にはたいがい、大豆か小豆が植えられていた。花咲き村で田んぼを始めた頃、これを思い出して小豆を植えたことがある。ところがこれは失敗だった。畦の草刈りをそんなにしょっちゅうやれないのだ。子どものころは牛を飼っていたので、牛のえさとしてこの畦の草を必要としたのだった。だから、田んぼのため、というより、牛のための畦の草刈りだ。結果、畦に植えた豆も育つというわけである。
いろんなことが連鎖していたことに、そのとき、初めて気づいた。このごろ、里山の風景をありがたがって、里山の保存を、などとよくいわれる。しかし、さまざまに連なりあって里山の在る生活があったわけで、部分だけを保全するというのは難しい。つまりは、地域という場所的、時間的空間としてトータルな視点が必要なんだと思う。

花咲き村で田んぼをやろうという話になったとき、「経験があるから」と別に不安に思うこともなかったが、それはちょっと違った。日常の管理、特に水取なんてメンドーなことがとても大事なことなんだと、やり出して気づいた。子どものころは、たとえ一丁前に作業ができたとしても、所詮は「お手伝い」である。収量がどれほどなんてロクに関心もなかった。
「収量」で思い出すのはよく「技師さん」がまわって来ていたことだ。稲の様子を見て、あれこれアドバイスをしていた。農業改良指導員というような立場だったんだろう。現場にいつもいて、農家の相談相手、そういう人たちがサポートしていたのだ。振り返って今、現場に密着している林業改良指導員っているのだろうか。過去のものとなってしまったのだろうか。
花咲き村の田んぼには大勢の子どもたちが参加する。学童保育の子どもたち、地元の子供会。しかし、この場合、仕事ではなく、あくまで体験だ。体験は必要だが、当然にも責任はない。できれば、子どもたちも収穫までの全課程に関われるような方法はないものか。 「学ぶ」という意味からも、もっと子どものころから「働く」ということが必要なのだ。 雨が降らねば日照りを心配し、台風が来れば稲が倒されるのでは、と不安になる。6月に一緒に田植えをした子どもたちのどれほどが、この冷夏を気にしているだろう。


4)「山を手伝う」

田んぼや畑仕事と同じように、子どもたちは山での仕事を手伝わされた。1965年頃だ。子どもたちにとって、山での仕事は、どこまでが手伝いで、どこまでが遊びかわからないようなことが多かった。
 春休みの仕事は、たいがい、親父とスギの雪起こしである。
 雪で曲がったスギに登り、ワイヤーと荒縄をかけ、そのワイヤーをジャッキで起こし、起きたところで荒縄でくくって、あとはワイヤーをはずして、一丁上がり。
 そのときの親父のかけ声をよく覚えている。1本起こすたびに、「はい、3千円!」。この1本3千円がどの段階での値段かは知らないが、とにかく3千円で売れていたのだろう。
 この時代の3千円はすごい。
 高校時代は中津で下宿していた。このときの下宿代が4畳半3食賄い付きで、6千5百円だったから、3本スギを売れば、高校生が一ヶ月暮らせることになる。
 中学3年の時、お袋が山に連れて行って、スギ山を指して円を書いた。「これだけのスギを売るから、これで高校3年間、生活しろ」といった。ほんのわずかな面積だった気がする。こうして、スギのおかげて、高校に行くことができたのである。その意味では、今でもスギにはうんと感謝している。多分、同じようにスギの世話になって大きくなった人はたくさんいるはずだ。だから、今になってスギを毛嫌いするヤツはバチが当たるぞ、といっておこう。日本の山村を支えてきたのだから。
 ただ、悲しいことに、高校に行かせてくれた山は今、荒れ放題で、トホホな状態だ。あまりいばったことはいえない。
 さて、伐採し、木材を出した後、残ったものは薪として使う。残らず、取りに行く。これはまったく子どもたちの仕事だった。自分たちが運べるくらいの量を取ったら、あとは日が暮れるまで遊んで帰る。
 今から考えれば、ほとんど何もない状態での地ごしらえは簡単だったに違いない。
 さらに、条件の良いところでは、この後、山を焼くのだ。「カンノ焼き」と呼んでいた。
 カンノ焼きは、大人数を必要とするし、その時の天気が大きく影響するから、その日にならなければやれるかどうかはわからない。地域のビッグイベントだ。
 お袋の話だと、いつか隣の山に広がって大騒ぎになった、というようなことがあったらしい。危険も伴うのだ。
 このカンノ焼きにも子どもたちは動員される。
 夕方から始まる火入れ。火は上から徐々に降りていく。焼けた後に子どもたちが張り付かされる。境界のところに篠竹を持って、立たされるのだ。「こっちに火が回ろうとしたら、これで消すんだぞ」と言われながら。山火事の恐ろしさは充分に知っているから、それなりに緊張していたことを思い出す。
 とにかく、大勢の人手がいる時、子どもたちも猫の手以上に期待される。人数で勝負、というような仕事には子どもたちもよく使われていた。
 カンノ焼きといえば、このところ全くやらない。山焼き自体が難しくなっただけではない。もともとカンノ焼きというのは「焼き畑」であり、スギを植えた間に小豆や里芋を作るというのが目的だ。いわゆる「アグロフォレストリー」。
今、山村は過疎で、耕地に不自由はない。それに、人よりイノシシの方が多いのだから、芋を植えてもイノシシがあっという間に食い尽くしてしまうだろうし。
 こんなことをあれこれ思い出してみるに、山へのありがたさは、結局のところ、関わり方による気がする。一般的に空気や水、環境にとっての役割を教えられてありがたがるより、具体的にどれだけ多く汗をかいて、つき合ったかによるのではないだろうか。


5)「山で遊ぶ」

秋から冬になると、子どもたちの遊びの場はいっぺんに山に移っていく。大分の山の中だから、雪は降ってもスキーやソリで遊びができるほどのものではない。しかし、椎茸の産地だ。クヌギ山があるのだ。クヌギの下は、牛のための草刈り場だ。冬はここにクヌギの葉が積もる。ソリをやるにはぴったりの場所だ。ソリは、木馬(きゅーま)と呼ばれた。そう、木材を山から運び出す木馬が原型で、それを人がひとり乗れる程度の大きさにして、魚屋からもらってきたトラ箱をつけたり、の工夫をする。ただただすべって降りるだけではつまらなくなる。一度、もっとスピードを出そうと木馬の足に竹をはかせたことがあるが、これはスピードが出過ぎて下の田んぼまですっ飛んでしまった。一瞬のスーパーマン。けっこう、怖かった。
 怖い、でも子どもたちは冒険や探検が大好きだ。だから、なんでもやってみる。今でも怖かったと思い出すことがある。洞穴(ほらあな)探検ごっこ。田舎は大昔の阿蘇山の噴火でできたところだそうで、洞穴がたくさんあった。それに潜り込む。洞穴の天井にはコウモリがびっしりだったが、小さな穴が迷路のようにあちこちに延びている。子どもが這ってどうにか通れるくらい。もぐっていくのだ。どこにつながっているか、入ってみようということになる。お調子者が先頭だ。いつぞや、すごく怖かったのは、穴がどんどん狭くなり、あげくに下がっていく。頭からつっこんでいる身としては、戻るに戻れない状態。後ろには数人が続いているし。なんとか抜けだすことができたときには、心底ほっとした。 もうひとつ、冬の子どもたちの遊びは、鳥のワナを仕掛けることだ。いわゆるギロチン式のワナだ。多く掛ける者もいるが、普通は10丁程度だ。カッチョやガシが主な対象となる。「捕ってどうするの?」などと聞かれることがあるが、食うに決まってる。正直、それほどうまいとは思わなかったが。
ワナの見回りは、放課後、1時間くらいかけて毎日回る。4、5人くらいが一緒になって。しかし、どうして子どものころは、あんなにたくさんのワナを見落おとすことなく見回れたのか、不思議に思うこともある。
ワナを掛けるのは、たいがいカシやシイの、いわゆる照葉樹林だ。ここには別の遊びもある。かなり密生しているので、カシノキに登って、ゆすって反動をつけ、となりのカシノキに飛び移る、などして遊んでいた。ここでも一瞬のスーパーマン。というより猿だね。 当然、ターザンごっこもやる。ターザンごっこのおもしろさは、いつカズラが切れるかわからないところだ。切れれば、一瞬のスーパーマン、それも失速したスーパーマンだ。  どの遊びにしても、冒険する気分が入っている。安全を約束されてやっているのではない。どちらかというと、危険があるからこそおもしろかったのかもしれない。それに危ないことをやる方がみんなから「尊敬される」という雰囲気もあったし。
 山での遊びがおもしろかったのは、山がそこにあることが日常だったからであり、また、集団で遊べる仲間がいたからだと思う。これが2~3人で遊んでいたら、つまらなかったに違いない。
 山が遊び場として許されている環境だ。子どものころは、この山は誰それの山だと所有者を意識したことはなかった。今でも、遊んだ山が誰のだったかは知らない。
 こんなふうに自由に山で遊べる環境がどこにでもあるといいんだが。今はやりの「冒険遊び場」などが都会の公園ではなく、山がフィールドだったらもっと楽しいと思うよ。
 森林ボランティアなどといって山に入っているが、山での遊び場確保でもある。山を所有してはいないが、ボランティア活動のおかげで自由に遊べる山は増えている。


6)「帰去来兮~帰りなんいざ~」

振り返ってみれば「森林ボランティア」とよばれる活動のイメージは、小学生の頃、山で遊んだり、手伝ったりしたことがベースになっているような気がする。
 仕事かといえば、仕事ではない。かといって、遊びかといえば遊びだけ、とも言えない。森林への関わりで、この中間的な空間がなくなっていたのだ。林業に関わってない人たちが山に関わる術(すべ)がなかったのだ。
 このシリーズで伝えたかったことのひとつは、労働と遊びの中間的な関わりを許していく「人と自然との関わり方」がもっとあっていいんじゃないかということだ。
 子どものころ、自分の家の山かどうかにかかわらず、そこに山があればそれが遊び場となりえた。遊び場としての森林は「自由な空間」だった。「自由な空間」が失われたのは、山で遊ぶことが少なくなり、結果、山で遊ぶルールが、遊ぶ方も所有者も地域社会も、みんな忘れてしまったからだ。ルールどころか、森林の存在すら忘れてしまう昨今。
 高度成長のかけ声とともに物質的豊かさをがむしゃらに追求して来るところまで来た社会には、別の道も浮かび上がる。今風にいえば「スローライフ」などという言葉が表現する生活スタイルだ。生活の豊かさの基準を換えてみようという流れである。
 森林ボランティアが「自由な空間」の確保をもって、「人と自然との豊かな関わり」を体現する新しいスタイルになるといいと思っている。そこで汗を流すことは、経済的な見返りのある労働ではなく、外部に働きかけて自己を表現していくという本来の労働として、である。

 もうひとつ言いたかったことがある。
「森林ボランティア」が目先の効果を言い過ぎている、いわば意味付与することが多すぎやしないか、ということだ。
10数年前に花咲き村で放置林での整備をはじめたときは、社会的な意味や環境のためなどという能書きは何も持たなかった。果たした結果に意味付与したに過ぎない。森林ボランティアが「環境保全」とか「社会貢献」として強調され過ぎるのは、どことなく落ち着かない。いや、おれだって、どこぞで講師などに呼ばれて話すときにはこういう類のことを大声で言うのだが。
ま、実際のところ、「地球温暖化を防ぐために森林活動している」と意識的に言えて、持続している人が何人いるんかいな、ということだ。ざっと見たところ、全国6万森林ボランティアのうち、100人だね(数字がいいかげんなものであるのはゆーまでもない!)。  意味づけは活動の社会性を表現し、多くの人を誘う入り口にはなりえるが、意味づけだけでは活動は持続しない。森林を育て、つくりあげる楽しさを感じ取れる身体感覚と社会的意味をうまくつなげる工夫がいる。
 森林ボランティアの底辺の広がりが、日常の暮らしにある森林、暮らしにむすびついた森林とつきあえる社会環境を創造できたらいい。そして、ここが重要なのだが、その社会環境は「森林を感じる身体」が基礎となる。「身体が共鳴する森林ボランティア」である。


最後に

これまで書いてきた話は、だいたいが小学5~6年生のことのことである。中学生になると、また気分は変わってくる。もう手伝いというより「仕事」という感じになってしまう。「イヤだなあ」という気持ちが頭をもたげ、「やらされている」という気分で一杯。早く大きくなって、こんな田舎を出ていきたいと誰もが思ったものだ。そして、高度成長はそれを実現し、みんな東京にでて来た。
そして、40年が過ぎ去り、「思い出の山、思い出の川」が、心のパラダイムを転換する。「帰りなんいざ、田園まさにあれなんとす」。
 山を楽しいと感じる感覚を育んだ「思い出の山、思い出の川」は忘れない。

花咲き村 園田安男

2001年7月7日土曜日

花咲き村の谷津田物語

田んぼは水とお日様が命である。花咲き村がやっているような谷津田は苦労する。まず、山間の田んぼということで、樹木に遮られて、お日様が入りにくい。さらに、自然の沢だけに依存しているので、水の確保がお天とう様次第となる。谷津田は、昔、まだ米が貴重で田んぼにできそうなところは、無理矢理にでも田んぼにしたところなので、条件は悪い。
 しかし、今、谷津田での米作りは「なりわいとしての農業」ではなく、ある種の社会教育、環境保全という意味あいを重くしている。森林と一体となっている谷津田だからこそ、というおもしろさがある。つまり、山も沢も田んぼも一体となって相互につながっているということが実感として理解できるのだ。
 花咲き村の谷津田に、多くの子どもたちが来る。子ども会や学童保育のグループ等々。今年は高校生グループも来た。ただの米作り体験では終わらない深さを持っていることを活用しない手はない。
 田んぼを維持しようと思ったら、山を管理せねばならない。保水力を高め、日当たりをよくし、水の確保のために池を掘ったり。池には様々な生き物が暮らし、水生植物も育つ。  そればかりではない。谷津田には歴史がある。花咲き村がやっている田んぼは、戦後の農地解放で小作の人に払い下げられた歴史もあり、農地解放という歴史を学ぶことができる。

 花咲き村が田んぼをやり始めたのはかれこれ十数年前のことだ。私が森林組合での山仕事を請負でやっているころだ。大久野の山を歩いていると、あちこちの山間に小さな田んぼの跡がある。うち捨てられてから相当に年月を経ているらしく、どうにか畦の跡が確認できる程度のものが多い。こんな小さな、それも条件の悪いところでも田んぼを欲しがっていたのだ、という昔の人の思いが伝わる。そういうなかで、比較的まとまって、それもまだ畦も水路もしっかりしている田んぼがあった。うまいことに、所有者は森林組合で一緒に働いていた神田さんだ。話はトントン拍子で、花咲き村が田んぼをやるという活動がはじまったのだ。
 田んぼの作業は経験があった。小さい頃、ずいぶん、やらされてきた。当時は、なにせ子どもだから遊びたい盛りだ。手伝いをさせられるのだから、楽しいと思ったことはない。しかし、不思議なもので40歳を過ぎた頃、なんだか小さい頃、手伝わされた田んぼをやりたくなった。
 育ったところは、大分県の山の中、川の両側に棚田が広がる。典型的な中山間地の農業である。多分、8反ぐらいの田んぼがあったのだと思う。今のような機械化はされておらず、すべて手作業である。耕運機もまだない時代だ。動力は牛だ。家にも牛を飼っていて、田を耕やし、代掻きするのも牛。小学生も6年生ともなれば、代掻き程度のことであれば牛を使う。当然、牛のエサをやり、世話するのも子どもが中心だ。
 田植え、稲刈り、脱穀など小さな子どもも総出で手伝うことが必要だった。なかでも、田植えは農家にとって、一大イベント。近所の人たちも互いに労力を貸しあう、いわゆる「結い」の方法。子どもも小学5,6年生ともなれば確かな労働力になる。田植えなど力のいらない仕事では、充分に一人前だ。「おまえは、仕事は速いが雑」とよく言われたのを思い出す。
さて、このころ、「田植え休み」というものがあった。田植えの季節、3日ぐらい5,6年生は田植え休みがあって、学校に来なくて田植えを手伝え、ということだ。今の子どもたちが体験で、田植えをするのとは時代が違う。
 この小さい頃、習い覚えた手が花咲き村で田んぼをやるとき、大いに役に立った。今になって、田んぼの手伝いをさせられた環境に感謝している。あの頃は、子どもが手伝うことが当たり前のこととして米作りが成り立っていたから。
◆「戦後すぐ、大久野地区での米作りの様子」
花咲き村が田んぼをやるのを様々な側面から支援してもらっているのが、神田十四男さん。今年、82歳になる。その名が教えるように、大正14年生まれである。神田さんには、苗の提供から、脱穀の指導と、あれこれとお世話になっている。田んぼでわからないことは神田さんに相談してきた。
神田十四男さんに話を聞いた。
神田さんによると、大久野地区に田んぼはかなりあったという。それらはある時、畑にかわったり、宅地になったりで今では田んぼの面影すら見ることができなくなってしまっただけの話だ。
神田さんは「日よう取り」として、また小作として田んぼの仕事をしてきた。神田さんの田んぼの所有は、小作として作っていたところが、戦後の農地解放で自作地になったそうだ。
昭和20年、30年代の頃、米作りが元気な頃、田んぼの所有者が全部、家族総出で田植えをするということでもなかったらしい。田植え職人を雇うのだ。神田さんはこの田植え職人もしていた。
当時は、機械化される前だから、当然、耕すのは牛馬、大久野では馬が主力だったという。なぜか。大久野は林業の町だった。山から伐採した木材を運び出すのに、馬は不可欠。いわゆる「馬車引き」を生業とする人がいたわけで、その人たち、馬方と呼んでいたそうだが、その馬方が田んぼを耕すという仕事もしていたのだ。
そして、その代掻きする馬方の相方が「早植え」と呼ばれた田植え職人である。馬方と早植えが組んで、頼まれた農家に行き、代掻きをして、田植えをしたという。昨今、大型の田植機やコンバインを持って、頼まれ農家に田植えや稲刈りを請けおうというスタイルの元祖みたいなものと考えればいい。
田植え当日、朝の5時に頼まれた農家に行く。そして、朝ご飯を食べ、作業にはいる。午前中に苗取りをして、午後から田植え、相方の馬方は苗取りしている間に代掻きするということだったらしい。
仕事は、かなり大変で、1日にひとりあたり5畝(1反の半分)が最低のノルマだったという。実質、田植えは半日だから、1日中、田植えだけをやれば、1反を植えてしまうことになる。花咲き村の田んぼ面積でいえば、ひとりで1日半で植え終わることになる。花咲き村が80人で大騒ぎしているのと大違いだ。やはり、田植え職人である。
神田さんは今でも田植えにヒモをひいたり、線をかいたり、というやり方はしない。最初に基準となるヒモをひいたら、それに合わせて、あとはひたすら目視で間隔をはかり、休みなく植えていく。神田さんの話だといちいちにヒモを引いてやるのとでは、早さが1.5倍は早くなると言う。また、請負だから互いに競争のようにしてやっていたそうだ。田植えをやったことのある人はわかると思うが、ヒモを引いて植えていくと、1列植えたらヒモを移動するちょっと時間があって、ここで腰を伸ばせる。このすき間時間がないのだ。相当に腰が痛かったろう。
そのかわり、待遇はかなり良かったという。3食付きで、晩飯には酒、魚がついてのご馳走だったそうだ。日当も、平均的なものの倍くらい。田植えは昔も6月の上旬。10日間程度の短期決戦だからこういう方法が必要だったのだろう。
 そして、昭和40年代になると大久野から田んぼが急速に姿を消し始める。働き口が増え、米を作るより外に働きに出て、米を買う方が安上がりとなる。田んぼは水路維持が必要でない畑に変わる。人が増えれば宅地化も進む。米作りをやめた谷津田には、価格が高かった杉が植えられた。しかし、谷津田に植えられた杉はやわらかい土ゆえ、20年も経つと風や雪で多くは倒れ、谷津田の跡としての姿を再び見せた。
ひとつひとつの田んぼに様々な、多くの汗が流されてきた。そして、時の流れとともに、人々の生活の変化とともに、歴史の中にも生きてきた。その中で、今、活かされ、米が作られているわずかな谷津田は貴重である。
◆「日の出町に残された田んぼ」
日の出町の森では、昔、谷津田だったのだろうと思われる田んぼ跡があちこちに見られる。日の出町では田んぼは貴重なものだった気がしていた。先日、役場経済課から「日の出町水稲・陸稲作付け面積」(農水省耕地面積統計)という資料をもらった。昭和28年からの米の作付け面積の統計表。これを見ると、かつては日の出町でも田んぼは多く、また、陸稲(おかぼ)も多かったようだ。一番、作付けの多かった昭和35年を見ると、水稲50ha、陸稲26haで、計76haもの稲作が行われていたとある。あちこちで話を聞いてみると、あそこも田んぼだった、ここも田んぼだったという話をよく聞く。今は宅地になったり、畑になったりで、わすか1haのみ。
この統計を見ると、昭和46年あたりから48年にかけて、40ha以上あった水田が一気に10ha以下に激減している。聞くところによると「カドニウム汚染」が見つかったときに米作りをやめた農家が多かったそうだ。また、この時期は日の出町の人口が急増したときでもあり、宅地開発された時期とも重なっている。さらに高度成長で農業から離れる人が増えたり、米を買った方が安上がりという気分が広がったという時代背景もあるようだ。 そして、昭和48年頃から3年間で1haずつ減っていくという経過をたどり、現在、1ha程度の貴重な存在になってしまった。おそらく担い手であったお年寄りが亡くなるとそのまま放棄されたのだろう。
今、日の出町で稲作をやっている現役田んぼは7ヵ所ある。いわゆる谷津田と呼ばれるところは4ヵ所だ。羽生地区には、2ヵ所。そして、水口地区で花咲き村がやっている2ヵ所。平井地区には日の出団地の下に1ヵ所。これら、ほとんどが1反~2反程度の小さなものであり、全部あわせても1町(1ha)程度だが、日の出町でわずかに残された「貴重な田んぼ」である。
 田んぼを維持するのもなかなか大変である。山の水だけでは足りないところは、川からポンプでくみ上げたりもする。それに、田植えや稲刈りを手作業でやったとしても、脱穀、籾すりなどの機械がないとできないという事情がある。存在そのものが貴重といっていい。
最後に。
田んぼがわずかしか残ってない日の出町では、田んぼは貴重だ。田んぼに戻せるところは、できるだけ戻したいと考えている。しかし、昔、田んぼであったところでも、根で広がるヨシが増えているとこれを退治するのはなかなかの労力で難しく、また、水路が壊れてしまっているところも水の確保が難しくて田んぼとして復活するのは大変である。それでも貴重な地域の財産だ。活かしてこそ意味がある。
子どもたちに米作り体験をさせたいというグループがありましたら、花咲き村が相談に乗ります。ご連絡下さい。

花咲き村 園田安男

2000年6月15日木曜日

花咲き村物語

花咲き村が2000年6月15日をもってNPO法人になった。

ボランティアグループとして発足して25年、時代の要請の中で新しい歩みを始めることになる。

NPO化と共に新メンバーも増え、NGO時代の花咲き村について全く知らないという村民も増えてきた。

花咲き村が何故山仕事なのか、何故日の出舎なのか、太陽の家との関わりは、そして目指しているものは……。

これらのことは古くからのメンバーがきちんと記録し、伝えていかなければいけないとの、ずんだらけ・羽生さんはじめ多くの人の声におされ、花咲き原人・久保田がまた紙面をお借りすることになった。

はじめに花咲き村の山作業のルーツについて紹介したい。


「やさしいことをすれば花が咲く 命を賭けてすれば山が生まれる」


花咲き村の由来は、絵本『花さき山』から来ている。この絵本の心を実現しようと様々な活動に取り組んできた。

そして、花咲き村にはもう一つの山がある。誰も振り向かなくなった日本の山に花を咲かせることである。

この話は、荒れ果てていく山々を甦らせた人々の話である。

そして、今も山に入り、命を吹き込み続ける若き村人たちの話でもある。



花咲かじいさん
はじめに私の親父・故久保田仁作じいさんのことについて紹介させて頂きたい。


仁作じいさんは、日の出町の深い山の中に、明治から大正に年号が変わった直後に生まれた。

先祖からの言い伝えによると、仁作じいさんの祖先は甲斐武田信玄軍の落ち武者だという。


武田信玄は戦国の武将として有名だが、その情け容赦ない非道ぶりも有名であった。

信玄軍が滅びた後、我が家の先祖とその弟は、数人の家来と共に、残党狩りを恐れて幾つもの山を越え、この地に落ち延びて来たと言われている。


武田信玄の情け容赦ない戦い方は、敵からは恐れられていたと同時に、大変な恨みも買っていたと思われ、敗戦と共に家来たちは各地に落ち延び、ひっそりと暮らしていたようだ。

その兄弟の兄であった我が家の先祖は、現在の地に居を構え、弟は落ち武者狩りによる一族の滅亡を防ぐために檜原村に住んだという言い伝えがある。

日の出町には、長い間久保田姓は我が家しかなかったが、山を隔てた檜原村に多くの同姓があったのはこのためだと言う。


先祖は山を切り開き畑を作り、山には植林をした。

もう、戦のために生きるのではなく、家族と子々孫々の平和を祈って一本一本の木を山に植えたに違いない。

当初は、我が家を中心に家来の家が数件固まり小さな集落を作っていたそうだが、山間の小さな谷間での生活は厳しく、1軒去り、2軒去り、やがて我が家だけとなってしまったそうだ。

明治時代に建てられたと言われる時代物の家は、つい最近まで残っていた。

親父は先祖の残した屋敷に手を加えることを極端に嫌い、子供たちは時代劇に出てくるような家の中で育てられた。

近年では『おしん』の撮影に使われたが、明治の山形のロケーションとして撮影されたのだから少しも喜べない……。


江戸時代に入り、徳川家康は武蔵野国を見渡せる最も近い場所に守護神社を建立した。

青梅市御岳山にある、「御岳神社」である。

御岳神社を広く庶民に参拝させるために「御岳講」を作り、各地区に信者を増やし参拝させた。

明治から大正、昭和にかけて、この講がかなり盛んだったようで、多くの参拝者が御岳神社を訪れた。

参拝者たちは遠方から訪れるため、神社に参拝する前に麓で1泊する必要があった。

このベースキャンプとして使われたのが、我が家『滝本』だったようだ。

青梅参道他御岳神社への参道の最後の一軒にこの屋号は付けられている。

我が家は神奈川、横浜方面からの参拝者が多かったようで、この参拝者の宿として一時期賑わっていたようだ。


小さい頃、蔵に入ると日本刀や昔の横浜の絵地図、大震災前の東京地図などが出てきた。

多くの参拝客が残していった当時の文化の土産だったのだろう。

山の中にあっても、蔵は子供心に不思議な世界だった。


私の親父久保田仁作はここで生まれ、ここでずっと暮らしてきた。

先祖が開拓し育ててきた山林を、同じように守り育てながら生きてきた。

林業といっても、自分の植えた苗が成木し、材木として出せるまでに60年という年月がかかるため、自分の植えた木は自分の時代では切れない。

子のため孫のために、気の遠くなるような仕事を黙々と続けて人生を送ってきた。

春に苗を植え、夏には下草を刈り、冬には枝を落とし、雪が降れば倒れた苗を引き起こし、まるで自分の子供を育てるように1本1本の木を見守りながら育ててきた。


昭和20年代には山林にも活況があった。

戦争で廃墟となった町を復興するために、たくさんの木が切られ、その後にたくさんの杉・檜が植えられ、自然林が開拓され人工林に変わっていった。

たくさんの人が山と木を相手に生活していた。

ところが、時代は大きく変わり、多くの人が山を捨て町に下りていった。



山の荒廃
日の出町には、『アサノセメント西多摩工場』という巨大なセメント工場があった。

明治の富国強兵政策の一環として、セメント製造は国策事業となった。

地球が46億年かけて作り上げてきた海底生物の蓄積と言われている石灰は、奥多摩や日の出の山に層になって現れていた。

遠い昔、この地は海の底だったのか、あるいは地殻変動によって海底が隆起したものだろう。

政府は、国策としてセメントを製造するために、石灰輸送のために鉄道を引いた。

これが青梅線・五日市線である。

これらの鉄道は人の輸送より石灰、セメント輸送のために引かれたのである。

昭和30年代、セメント工場は最盛期を迎え、24時間体制で稼動し、大きな煙突からは白い煙が吐き出されていた。


大久野地区の住宅の屋根にはいつも灰が降り積もり真っ白だった。

社宅地区には200~300世帯が住み、中心にスーパーマーケットがあった。

当時はとてもモダンで文化的な生活だった。

近くに建てられた公民館は、アサノセメントからの多額の寄付によって建てられ、当時としてはとても立派な物で、映画・演劇・コンサートなども開かれたという。

その公民館が建てられたのは、まだ練馬区が村だった頃だというから驚きである。


町も大きく変わり、時代は工業化へと変貌していった。

山林は目に見えて荒れていった。

草は伸び放題で苗の背丈を越し、雪で倒れた木を引き起こす人もいなくなった。

下枝を落とす音も聞こえなくなり、木々は伸びるがままに下枝を伸ばしていった。

木々は自分と自分の子孫を守るために大量の花粉を発するようになっていった。

山林が荒れても、誰も振り返らなかった。

山に入っても一銭にもならない。

山は時代と人の心の中で急速に存在感を失っていった。


その中で、親父はかたくなに山を守り通した。

毎日毎日山に入り、一本一本の木に語りかけるようにして木々を育ててきた。



山で親父と

小さい頃、よく山の草刈りの手伝いをさせられた。

特に、夏休みには毎日鎌を持たされて山に連れて行かれた。


夏の暑い中、急な斜面の草を刈る……暑くて辛くて子供にとってはとても厳しい作業だった。

その暑くて辛い作業を終えても一円の小遣いももらえない……。

いつも不平ばかり言っていた。


そんな時、親父は静かに言った。

「……今だけ良ければいいとか、自分だけ良ければいいではいけない。緑というのはとても大切なものなんだ。緑があるからこそ大雨が降っても水を貯え、川の氾濫を防ぐことができるし、緑があるからこそ空気を綺麗にしてくれるんだ。どんな小さな草も木も人間にとって、とても大切なものなんだ。だから、今お金にならないからと、誰もが山を捨て木を忘れ、緑を粗末にしていってどうする。

「無用の用」という言葉がある。

一見役に立たないと思われるものの中にこそ、とても大切な物がある。

役に立つ物だけ大切にして、役に立たない物を捨てていくという考えでは必ず自分に反動が返ってくる。

今役に立つから、今お金になるからと、目先の利益や目先の損得だけで生きていってはいけない。

大きくなって見えなくなるものがあったら、山に帰ってこい。

木が教えてくれる。

草が教えてくれる。

自然はいつも本当のことを教えてくれる。」


これが何十年も山に住み、緑を守ることだけに生きてきた親父の哲学であった。

久保田仁作じいさんが、子供の誕生と共に植えた木が、子供たちの巣立ちと共に30年木、40年木となり、枝落しなども一通り終わり、立派な青年木となった。

あと20年から30年の成長を待てば立派な成木として切り倒せる所まで育った。

ここまで育てるのにどれだけの苦労があったか私にも分からない。


戦争前に植えられていた杉・檜は戦後の復興のためにほとんど切り出され、その後にたくさんの杉・檜の苗が植えられた。

小さな苗は草に覆われるために、毎年草刈をしなければならない。

その頃の山は活況があり、どこの山でも夏に草を刈る風景が見られた。


ところが、それから10年も経たないうちに日本は高度成長を掲げ、工業化への道を突き進むことになる。

山からは一人消え、二人消え、段々と山の手入れをする人の姿は見られなくなった。

60年かけてやっとお金になる木を、気が遠くなるような苦労をして汗水流して育てて、さらにその時の相場でただ同然になるかもしれない林業より、毎月きちんと現金が入る工場労働の方がどんなに良いか分からない。

人は皆工場労働を選んだ。


中学生の頃、夏休みには親父に連れられて山の草刈を手伝わされた。

暑い夏の草刈はとても辛かった。

同級生で夏休みに山の草刈りをしているのは私ぐらいのもので、惨めで親父に当り散らしていた。

そんな私の前で、親父はいつも機嫌が良かった。

家ではぶすっとしてほとんど口を利かない親父が、山ではニコニコと優しい親父の顔で話しかけてきた。


「あの木は、お前が生まれた時に植えた木だ。まだ、お前と同じくらい手が掛かる。生意気の盛りだ。

だがよく見ろ。あんなに小さい苗が雑草の中でも凛として空を目指して伸びている。

杉は杉、檜は檜の天性をわきまえて生きている。」


「あの木はお前のじいさんが植えた木だ。お前たちが大きくなった時、役に立つようにと楽しみにしながら育てた木だ。

山に木を植える人間は皆、誰も目先のために木を植えない。自分のために木を植えない。孫や、その次の世代のために木を植える。」


焼岩山の裾野を吹く夏風の中で、そんな親父の言葉を聞いて育った。



花咲き村誕生

ところが昭和60年の春の大雪で多くの木が倒れ、残った木も幹の途中から折れ、山全体がズタズタになってしまった。


その夜、前夜から降り始めた雪は30cmを越え、多分に水分を含んだ春の雪は枝に重く積もっていった。

木々は頭を垂れ、ひたすらその重みに耐えていた。

雪は夕方になっても降り止まず、容赦なくその上にのしかかっていった。

そして、ついに耐え切れなくなった杉は根元から倒れていった……。


本来、上に伸びることだけを使命として育てられてきた杉・檜などはその背丈の割には根は張っておらず、特に雪には弱い。

その年の雪は春先にしては大雪であったことと、暖冬の雪のために大量の水分を含んでいたことが木々にとっては致命的だった。


ギギギ……ズシーン!


木々が悲鳴をあげて倒れていった。

更に残った木も幹の途中から裂けて折れていった。

その音は一晩中続いた。


「まるで山が泣き叫んでいるようだった」と親父は言う。


一夜明けて、山は目を覆うばかりにズタズタになっていた。


何十年も手塩にかけて育ててきた木々が、一夜にして壊滅的打撃を受けてしまった。

家に通じる道路も電話も電気も、全てズタズタに分断されてしまうほどの激しい被害だった。

それは、近年ない歴史的な雪害被害だった。


親父の山だけでなく、西多摩の山々は各地で同じような大きな被害を受けた。


親父は翌日から山に入り、それらの木を一本一本黙々と片付けた。

そして朽ちかけていた山の入り口の小さなお不動様のお社を建て替えた。


「近年の雪は春先に降る雪が多くなった。雪は重くなった。……昔はこんなことは無かった。冬が暖かすぎる。やはり、人間の仕業だろう。」


山が壊滅的な打撃を受けてから、親父は急に歳を取った。

それまで山道でも急斜面でも自分の庭のように歩き回っていた親父の足腰が急に衰え、息切れしながら歩くようになった。


荒れ果てた山の半分がそのまま残った。


既に子供たちは巣立ち、山の仕事を引き継ぐ者はおらず、後継ぎの長兄も他の仕事に就いている。


「何とか、この荒れ果てた山だけでも片付けられれば……。」


緑を守り、緑と共に生きてきた親父の静かな呟きだった。


子供として、しかも親父に一番反抗した子供として、この親父の姿は辛かった。


それから休日のたびに山に入るようになった。

小さな頃に持った鎌を再び握り、荒れ果てた山に入った。

私の子供の頃に植えた杉の苗は幹も太く、立派な青年木になっていた。しかし、雪害のためその幹も途中から折れて無くなり、立ったまま枯れていた。


足元には根元から倒れた杉が重なり合って倒れて、足を踏み入れる余地も無かった。

……痛々しい光景だった。


親父の山だけではなく、どこの山も同じように荒れ果てていた。

しかし、誰も手を入れてはいなかった。


今は人手をかけて切り出す木材の値段よりも、山から切り出すコストの方が高くついてしまう。

そのため荒れ果てた山に人件費をかけることなど、どこの地主もしなかった。

山は荒れ放題に荒れていた。


外国で大量の木材を切り出し、地球環境にまで影響を及ぼす国が、自らの国土の山林のこの荒廃ぶりはどこかおかしい。

そして、その緑の保全を一部の地主に任せるには限界に来ている。

山に入ってそんなことを考えた。


幸いにも、数人の友人に声をかけたところ、積極的に手伝いに来てくれる人たちがいた。 特に、ボランティア活動を通して知り合い、懇意にしていた清水さん夫婦は週末には山に入り、テントを張って泊り込みながら山仕事をするという熱心さだった。

更に、花咲き村の永井氏、アムネスティの粟野氏、後にはシャプラニールの園田氏、金森さんと強力な助っ人を迎えて、山は見る見るうちに蘇生していった。


そして彼らの、汗にまみれて傷だらけになりながらも奮闘している姿には大いに勇気付けられた。

親父が守り続けてきたもの、今地球が求めているもの、そして何よりも生命あるもの全てに必要なもの……緑、それがとても大切に思えてきた。


この国の人たちは、古くから山と共に生きてきた。

自然と共に生きるという価値観も、全ての生き物に神がいるという信仰も、森を切り尽くすと人は滅びるという掟も、みんな先人の知恵だった。


我が家にも山の神様、お不動様、お稲荷様、神棚、仏壇、色々な神様が祭られていた。

日本という国は、その知恵の中で先人たちが営々と汗を流し、山と緑と水を守ってきた。


しかし時代はいつの間にか先人の知恵を忘れ、目先の金と便利快適を追い求めていった。


私は結婚して家を出た。

私も、目先の金と便利快適を追い求める暮らしの中にあった。

親父は相変わらず山の中の一軒家に住み続け、最後まで山を守った。

今回の雪害は、今までの苦労の大半を根こそぎ倒し尽くすものだった。


しかし、それでも親父は諦めなかった。

誰に文句を言うわけでもなく、誰に当たるでもなかった。


……ただ山の神様に、人間の仕業を謝った。


この雪害の片付けは何年かかるか分からない。

しかし、自分一人でも山を片付け、新しい苗を植えたかった。

せめて親父が生きているうちに、また山に新しい生命を植えたかった。

決して親父のやってきたことは無駄ではなかったと、息子として伝えたかった。



……そうして今、ここに花咲き村があるのである。