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2000年6月15日木曜日

花咲き村物語

花咲き村が2000年6月15日をもってNPO法人になった。

ボランティアグループとして発足して25年、時代の要請の中で新しい歩みを始めることになる。

NPO化と共に新メンバーも増え、NGO時代の花咲き村について全く知らないという村民も増えてきた。

花咲き村が何故山仕事なのか、何故日の出舎なのか、太陽の家との関わりは、そして目指しているものは……。

これらのことは古くからのメンバーがきちんと記録し、伝えていかなければいけないとの、ずんだらけ・羽生さんはじめ多くの人の声におされ、花咲き原人・久保田がまた紙面をお借りすることになった。

はじめに花咲き村の山作業のルーツについて紹介したい。


「やさしいことをすれば花が咲く 命を賭けてすれば山が生まれる」


花咲き村の由来は、絵本『花さき山』から来ている。この絵本の心を実現しようと様々な活動に取り組んできた。

そして、花咲き村にはもう一つの山がある。誰も振り向かなくなった日本の山に花を咲かせることである。

この話は、荒れ果てていく山々を甦らせた人々の話である。

そして、今も山に入り、命を吹き込み続ける若き村人たちの話でもある。



花咲かじいさん
はじめに私の親父・故久保田仁作じいさんのことについて紹介させて頂きたい。


仁作じいさんは、日の出町の深い山の中に、明治から大正に年号が変わった直後に生まれた。

先祖からの言い伝えによると、仁作じいさんの祖先は甲斐武田信玄軍の落ち武者だという。


武田信玄は戦国の武将として有名だが、その情け容赦ない非道ぶりも有名であった。

信玄軍が滅びた後、我が家の先祖とその弟は、数人の家来と共に、残党狩りを恐れて幾つもの山を越え、この地に落ち延びて来たと言われている。


武田信玄の情け容赦ない戦い方は、敵からは恐れられていたと同時に、大変な恨みも買っていたと思われ、敗戦と共に家来たちは各地に落ち延び、ひっそりと暮らしていたようだ。

その兄弟の兄であった我が家の先祖は、現在の地に居を構え、弟は落ち武者狩りによる一族の滅亡を防ぐために檜原村に住んだという言い伝えがある。

日の出町には、長い間久保田姓は我が家しかなかったが、山を隔てた檜原村に多くの同姓があったのはこのためだと言う。


先祖は山を切り開き畑を作り、山には植林をした。

もう、戦のために生きるのではなく、家族と子々孫々の平和を祈って一本一本の木を山に植えたに違いない。

当初は、我が家を中心に家来の家が数件固まり小さな集落を作っていたそうだが、山間の小さな谷間での生活は厳しく、1軒去り、2軒去り、やがて我が家だけとなってしまったそうだ。

明治時代に建てられたと言われる時代物の家は、つい最近まで残っていた。

親父は先祖の残した屋敷に手を加えることを極端に嫌い、子供たちは時代劇に出てくるような家の中で育てられた。

近年では『おしん』の撮影に使われたが、明治の山形のロケーションとして撮影されたのだから少しも喜べない……。


江戸時代に入り、徳川家康は武蔵野国を見渡せる最も近い場所に守護神社を建立した。

青梅市御岳山にある、「御岳神社」である。

御岳神社を広く庶民に参拝させるために「御岳講」を作り、各地区に信者を増やし参拝させた。

明治から大正、昭和にかけて、この講がかなり盛んだったようで、多くの参拝者が御岳神社を訪れた。

参拝者たちは遠方から訪れるため、神社に参拝する前に麓で1泊する必要があった。

このベースキャンプとして使われたのが、我が家『滝本』だったようだ。

青梅参道他御岳神社への参道の最後の一軒にこの屋号は付けられている。

我が家は神奈川、横浜方面からの参拝者が多かったようで、この参拝者の宿として一時期賑わっていたようだ。


小さい頃、蔵に入ると日本刀や昔の横浜の絵地図、大震災前の東京地図などが出てきた。

多くの参拝客が残していった当時の文化の土産だったのだろう。

山の中にあっても、蔵は子供心に不思議な世界だった。


私の親父久保田仁作はここで生まれ、ここでずっと暮らしてきた。

先祖が開拓し育ててきた山林を、同じように守り育てながら生きてきた。

林業といっても、自分の植えた苗が成木し、材木として出せるまでに60年という年月がかかるため、自分の植えた木は自分の時代では切れない。

子のため孫のために、気の遠くなるような仕事を黙々と続けて人生を送ってきた。

春に苗を植え、夏には下草を刈り、冬には枝を落とし、雪が降れば倒れた苗を引き起こし、まるで自分の子供を育てるように1本1本の木を見守りながら育ててきた。


昭和20年代には山林にも活況があった。

戦争で廃墟となった町を復興するために、たくさんの木が切られ、その後にたくさんの杉・檜が植えられ、自然林が開拓され人工林に変わっていった。

たくさんの人が山と木を相手に生活していた。

ところが、時代は大きく変わり、多くの人が山を捨て町に下りていった。



山の荒廃
日の出町には、『アサノセメント西多摩工場』という巨大なセメント工場があった。

明治の富国強兵政策の一環として、セメント製造は国策事業となった。

地球が46億年かけて作り上げてきた海底生物の蓄積と言われている石灰は、奥多摩や日の出の山に層になって現れていた。

遠い昔、この地は海の底だったのか、あるいは地殻変動によって海底が隆起したものだろう。

政府は、国策としてセメントを製造するために、石灰輸送のために鉄道を引いた。

これが青梅線・五日市線である。

これらの鉄道は人の輸送より石灰、セメント輸送のために引かれたのである。

昭和30年代、セメント工場は最盛期を迎え、24時間体制で稼動し、大きな煙突からは白い煙が吐き出されていた。


大久野地区の住宅の屋根にはいつも灰が降り積もり真っ白だった。

社宅地区には200~300世帯が住み、中心にスーパーマーケットがあった。

当時はとてもモダンで文化的な生活だった。

近くに建てられた公民館は、アサノセメントからの多額の寄付によって建てられ、当時としてはとても立派な物で、映画・演劇・コンサートなども開かれたという。

その公民館が建てられたのは、まだ練馬区が村だった頃だというから驚きである。


町も大きく変わり、時代は工業化へと変貌していった。

山林は目に見えて荒れていった。

草は伸び放題で苗の背丈を越し、雪で倒れた木を引き起こす人もいなくなった。

下枝を落とす音も聞こえなくなり、木々は伸びるがままに下枝を伸ばしていった。

木々は自分と自分の子孫を守るために大量の花粉を発するようになっていった。

山林が荒れても、誰も振り返らなかった。

山に入っても一銭にもならない。

山は時代と人の心の中で急速に存在感を失っていった。


その中で、親父はかたくなに山を守り通した。

毎日毎日山に入り、一本一本の木に語りかけるようにして木々を育ててきた。



山で親父と

小さい頃、よく山の草刈りの手伝いをさせられた。

特に、夏休みには毎日鎌を持たされて山に連れて行かれた。


夏の暑い中、急な斜面の草を刈る……暑くて辛くて子供にとってはとても厳しい作業だった。

その暑くて辛い作業を終えても一円の小遣いももらえない……。

いつも不平ばかり言っていた。


そんな時、親父は静かに言った。

「……今だけ良ければいいとか、自分だけ良ければいいではいけない。緑というのはとても大切なものなんだ。緑があるからこそ大雨が降っても水を貯え、川の氾濫を防ぐことができるし、緑があるからこそ空気を綺麗にしてくれるんだ。どんな小さな草も木も人間にとって、とても大切なものなんだ。だから、今お金にならないからと、誰もが山を捨て木を忘れ、緑を粗末にしていってどうする。

「無用の用」という言葉がある。

一見役に立たないと思われるものの中にこそ、とても大切な物がある。

役に立つ物だけ大切にして、役に立たない物を捨てていくという考えでは必ず自分に反動が返ってくる。

今役に立つから、今お金になるからと、目先の利益や目先の損得だけで生きていってはいけない。

大きくなって見えなくなるものがあったら、山に帰ってこい。

木が教えてくれる。

草が教えてくれる。

自然はいつも本当のことを教えてくれる。」


これが何十年も山に住み、緑を守ることだけに生きてきた親父の哲学であった。

久保田仁作じいさんが、子供の誕生と共に植えた木が、子供たちの巣立ちと共に30年木、40年木となり、枝落しなども一通り終わり、立派な青年木となった。

あと20年から30年の成長を待てば立派な成木として切り倒せる所まで育った。

ここまで育てるのにどれだけの苦労があったか私にも分からない。


戦争前に植えられていた杉・檜は戦後の復興のためにほとんど切り出され、その後にたくさんの杉・檜の苗が植えられた。

小さな苗は草に覆われるために、毎年草刈をしなければならない。

その頃の山は活況があり、どこの山でも夏に草を刈る風景が見られた。


ところが、それから10年も経たないうちに日本は高度成長を掲げ、工業化への道を突き進むことになる。

山からは一人消え、二人消え、段々と山の手入れをする人の姿は見られなくなった。

60年かけてやっとお金になる木を、気が遠くなるような苦労をして汗水流して育てて、さらにその時の相場でただ同然になるかもしれない林業より、毎月きちんと現金が入る工場労働の方がどんなに良いか分からない。

人は皆工場労働を選んだ。


中学生の頃、夏休みには親父に連れられて山の草刈を手伝わされた。

暑い夏の草刈はとても辛かった。

同級生で夏休みに山の草刈りをしているのは私ぐらいのもので、惨めで親父に当り散らしていた。

そんな私の前で、親父はいつも機嫌が良かった。

家ではぶすっとしてほとんど口を利かない親父が、山ではニコニコと優しい親父の顔で話しかけてきた。


「あの木は、お前が生まれた時に植えた木だ。まだ、お前と同じくらい手が掛かる。生意気の盛りだ。

だがよく見ろ。あんなに小さい苗が雑草の中でも凛として空を目指して伸びている。

杉は杉、檜は檜の天性をわきまえて生きている。」


「あの木はお前のじいさんが植えた木だ。お前たちが大きくなった時、役に立つようにと楽しみにしながら育てた木だ。

山に木を植える人間は皆、誰も目先のために木を植えない。自分のために木を植えない。孫や、その次の世代のために木を植える。」


焼岩山の裾野を吹く夏風の中で、そんな親父の言葉を聞いて育った。



花咲き村誕生

ところが昭和60年の春の大雪で多くの木が倒れ、残った木も幹の途中から折れ、山全体がズタズタになってしまった。


その夜、前夜から降り始めた雪は30cmを越え、多分に水分を含んだ春の雪は枝に重く積もっていった。

木々は頭を垂れ、ひたすらその重みに耐えていた。

雪は夕方になっても降り止まず、容赦なくその上にのしかかっていった。

そして、ついに耐え切れなくなった杉は根元から倒れていった……。


本来、上に伸びることだけを使命として育てられてきた杉・檜などはその背丈の割には根は張っておらず、特に雪には弱い。

その年の雪は春先にしては大雪であったことと、暖冬の雪のために大量の水分を含んでいたことが木々にとっては致命的だった。


ギギギ……ズシーン!


木々が悲鳴をあげて倒れていった。

更に残った木も幹の途中から裂けて折れていった。

その音は一晩中続いた。


「まるで山が泣き叫んでいるようだった」と親父は言う。


一夜明けて、山は目を覆うばかりにズタズタになっていた。


何十年も手塩にかけて育ててきた木々が、一夜にして壊滅的打撃を受けてしまった。

家に通じる道路も電話も電気も、全てズタズタに分断されてしまうほどの激しい被害だった。

それは、近年ない歴史的な雪害被害だった。


親父の山だけでなく、西多摩の山々は各地で同じような大きな被害を受けた。


親父は翌日から山に入り、それらの木を一本一本黙々と片付けた。

そして朽ちかけていた山の入り口の小さなお不動様のお社を建て替えた。


「近年の雪は春先に降る雪が多くなった。雪は重くなった。……昔はこんなことは無かった。冬が暖かすぎる。やはり、人間の仕業だろう。」


山が壊滅的な打撃を受けてから、親父は急に歳を取った。

それまで山道でも急斜面でも自分の庭のように歩き回っていた親父の足腰が急に衰え、息切れしながら歩くようになった。


荒れ果てた山の半分がそのまま残った。


既に子供たちは巣立ち、山の仕事を引き継ぐ者はおらず、後継ぎの長兄も他の仕事に就いている。


「何とか、この荒れ果てた山だけでも片付けられれば……。」


緑を守り、緑と共に生きてきた親父の静かな呟きだった。


子供として、しかも親父に一番反抗した子供として、この親父の姿は辛かった。


それから休日のたびに山に入るようになった。

小さな頃に持った鎌を再び握り、荒れ果てた山に入った。

私の子供の頃に植えた杉の苗は幹も太く、立派な青年木になっていた。しかし、雪害のためその幹も途中から折れて無くなり、立ったまま枯れていた。


足元には根元から倒れた杉が重なり合って倒れて、足を踏み入れる余地も無かった。

……痛々しい光景だった。


親父の山だけではなく、どこの山も同じように荒れ果てていた。

しかし、誰も手を入れてはいなかった。


今は人手をかけて切り出す木材の値段よりも、山から切り出すコストの方が高くついてしまう。

そのため荒れ果てた山に人件費をかけることなど、どこの地主もしなかった。

山は荒れ放題に荒れていた。


外国で大量の木材を切り出し、地球環境にまで影響を及ぼす国が、自らの国土の山林のこの荒廃ぶりはどこかおかしい。

そして、その緑の保全を一部の地主に任せるには限界に来ている。

山に入ってそんなことを考えた。


幸いにも、数人の友人に声をかけたところ、積極的に手伝いに来てくれる人たちがいた。 特に、ボランティア活動を通して知り合い、懇意にしていた清水さん夫婦は週末には山に入り、テントを張って泊り込みながら山仕事をするという熱心さだった。

更に、花咲き村の永井氏、アムネスティの粟野氏、後にはシャプラニールの園田氏、金森さんと強力な助っ人を迎えて、山は見る見るうちに蘇生していった。


そして彼らの、汗にまみれて傷だらけになりながらも奮闘している姿には大いに勇気付けられた。

親父が守り続けてきたもの、今地球が求めているもの、そして何よりも生命あるもの全てに必要なもの……緑、それがとても大切に思えてきた。


この国の人たちは、古くから山と共に生きてきた。

自然と共に生きるという価値観も、全ての生き物に神がいるという信仰も、森を切り尽くすと人は滅びるという掟も、みんな先人の知恵だった。


我が家にも山の神様、お不動様、お稲荷様、神棚、仏壇、色々な神様が祭られていた。

日本という国は、その知恵の中で先人たちが営々と汗を流し、山と緑と水を守ってきた。


しかし時代はいつの間にか先人の知恵を忘れ、目先の金と便利快適を追い求めていった。


私は結婚して家を出た。

私も、目先の金と便利快適を追い求める暮らしの中にあった。

親父は相変わらず山の中の一軒家に住み続け、最後まで山を守った。

今回の雪害は、今までの苦労の大半を根こそぎ倒し尽くすものだった。


しかし、それでも親父は諦めなかった。

誰に文句を言うわけでもなく、誰に当たるでもなかった。


……ただ山の神様に、人間の仕業を謝った。


この雪害の片付けは何年かかるか分からない。

しかし、自分一人でも山を片付け、新しい苗を植えたかった。

せめて親父が生きているうちに、また山に新しい生命を植えたかった。

決して親父のやってきたことは無駄ではなかったと、息子として伝えたかった。



……そうして今、ここに花咲き村があるのである。